2016年3月30日水曜日

能動的演奏考 下 ~普段の練習ですること~ 

 前回までは、本番やその当日の事についてを主に記してきました。
 今回は、毎日の練習でするべき事について記します。

 【音楽を奏でるために】

 最初にやはり強調しなくてはいけない事は、練習のどの段階にあっても、その音やフレーズの持つ意味・前後関係を考え、音楽を考えながら練習をしなくてはいけないと云う事です。当たり前の事ですが、しかし当たり前の事は常に大切です。それを踏まえたうえで、普段の練習で何をすべきかを記していこうと思います。

 【楽譜から情報を適切に読み取る】

▼楽曲に取り掛かる最初の作業は譜読みですね。しかしこの譜読みの段階が、音楽を創るために最も大切な段階です。それは、楽譜の中にはすべての事が書かれてあり、また"隠れている"ためです。その一つも見落とさないように、自分の気持ちとは距離を置いて分析をすることも、時には必要です。

 例えば、楽曲には"楽節"という大きな塊があり、前楽節と後楽節によって一つの楽節が成り立っています。その楽節の中にはいくつもの"ニュアンス"があり、それは作曲者によってスタカート、或いはレガートやアクセントといった形で指示が為されています。それらを支えているのは"和声"であり、和声には緊張と緩和があります。また拍子にも強弱があり、これは例外なく、その楽曲の曲想に大きな影響を与えています。和声感や立体感を出すにはアーティキュレーションを…等々。これらのすべてを楽譜から抽出し、そして最適化させる作業が譜読みです。

 譜読みと同時に、その曲のキャラクターも捉えていく必要があります。
 キャラクターは、テンポ表示(Allegro...Alegretto...Adagio...)や調性に関係しており、またリズム感ともよく密接に関係しています。分析を行い、読み取った情報にキャラクターを持たせていけば、その曲の持つ個性や意味が音楽となって現れてくることでしょう。それだけ、楽曲の分析は大切な段階であり、必要不可欠な作業です。

 実は、多くの技術的な問題は、音楽的な問題の中に集約されています。
 なぜなら音楽は緊張と緩和の連続であり、小さなフレーズの中にさえこの緊張と緩和は隠れています。これを読み違えてしまうと、楽譜と演奏に矛盾が生じて、意味の通じない演奏になってしまいます。しかし、楽譜を適切に読み取れば、多くの技術的な問題は解決されます。
 
 上記のような分析を行い、そしてそれに基づいて自分の音楽を確立していく練習が、普段の大半の練習です。このような練習を続ければ、"意味"と"確信"をもって演奏することが出来ます。そして遂にはには自己と音楽とが一体になることが出来ます。

 本番が近づくにつれ、舞台上で音楽を奏でることを想定した練習が必要です。これは、舞台上で音楽を奏でるための精神的な準備です。舞台に上がった自らを想定して、やりたい音楽に執心する。僕が思うに、練習からいきなり舞台に上がって音楽を奏でる事だけに集中できるほど、人間は割り切れるものではないと思います。
 

(※22/5/2016に追記)
▽緊張は、心と体の準備のようなものです。なんのための準備か、それは勿論、音楽を奏でるためですね。
 加えて最近僕が思うのは、舞台上での自分自身の演奏に感動するという事です。
 自分が感動していないもので、一体聴衆が感動してくれるでしょうか。また例え聴衆が感動されたとしても、自分が納得していなければ不満ではないでしょうか。
 舞台上で自分の演奏に感動する。そのための準備の一つが緊張なのだと思います。


 この段階を経て本番を迎えれば、舞台上で自己と音楽が一体になる演奏が実現し、音楽を奏でる事に集中できると確信しています。


 これまで上・中・下と、舞台で音楽を奏で るために必要な準備について記してきました。しかしここに記したことは、あくまで音楽を、最も抽象化した捉え方にすぎません。
 譜読みの仕方や体の使い方等については、別の記事でもっと踏み込んで記したいと思います。 


2016年3月26日土曜日

能動的演奏考 中 ~本番直前にすること~ 

 前回は、普段の練習におけるイメージと、舞台上での心構えについてを記しました。
 舞台上では【やりたい音楽を自由にやる】として、それによって本番での不安は解消されるとしました。
 今回は、本番に入る為のルーティーンについてを記します。

 【本番前の準備】

 本番直前に舞台上のピアノを触れる場合は、まず鍵盤の感触や跳ね返りを確かめ、ハンマーの挙動を確認し、そしてホールの一番後ろの席を意識した響きをなんとなく感じます。ここで、その日弾く曲の響きのイメージを作ります。

 別室で練習できる場合も多々ありますが、この時には譜面を置いて、やりたい音楽の確認をするのがよいでしょう。
 僕は、本番まで一時間前を切れば、ピアノに触れないようにしています。ピアノに触っていると、その日の本番に対するパワーが抜け出て行ってしまうと感じるためです。

 本番前は緊張します。沢山の演奏者を見てきましたが、ほぼ例外なく、すべての人が特別な状態にあります。そして例えば、その緊張によって体が強張ってしまうと、湧き出てくる音楽を筋肉がブロックしてしまう場合があります。

 したがって本番前は"軽いストレッチ"で体の強張りをほぐしましょう。
 僕が行うようにしているのは、腕を前へグゥッと数秒伸ばし、そして筋肉が緩んでいくのを感じるストレッチと、脇の下の強張りをほぐす軽いマッサージです。そして、鎖骨の間にある頚窩(ケイカ)という部分を開くイメージを持ちます。こうすると呼吸が少し楽になって前向きな気持ちになるんです。

 もう一つは、椅子の上に正しく座って、脚を地面から離し、お腹に力を入れて支える、体幹トレーニングを行います。お腹に力を入れることによって、呼吸を楽にする事もできますし、それに伴って上体の緊張が解けるのを感じる事ができます。

 そして譜面を読み直しながら、自分の頭の中で理想の音楽をイメージします。
 本番は、本番の瞬間のみに非ずして、舞台に上がる前から既に本番であると思いましょう。譜面を読みながら理想の音楽をイメージすることも、本番の一部なのです。

 舞台に上がった時のお辞儀の仕方も考えておきましょう。いつものやり方があれば、それが本番に入る一つの良いルーティーンとなります。
 椅子の高さは非常に大切なので、一切の妥協なく設定するべきです。

 さて、演奏にとりかかるまでは一応これで完了です。湧き出る力を感じながら演奏に入りましょう。

 演奏の始まり・始めは、鍵盤を押し下げる感触をよく感じ、また、ハンマーと弦との関係を感じるのがよいと思います。指先の感触は心に安心感を与えてくれ、勇気を与えてくれます。普段から出したい音を明確にイメージしたうえで練習をしていれば、演奏開始後、それとほぼ同時に、もしくは少しずつでも、演奏に自然と溶け込み音楽を奏でる状態に入っています。

 それでは具体的に、普段の練習では何をするべきなのか。
 もう何度も記しましたが「やりたい音楽」を引き出す事が、普段の練習ですべき一番重要な事柄です。
 次回は、練習の段階で為すべきことについて記します。

2016年3月24日木曜日

能動的演奏考 上 ~本番に舞台上ですること~ 

 『いったいみんなは、どんなことを考えながら練習をしているんだろう』

 これって大学生時代に、何も分からなかった僕が一番知りたかった事なんです。だけれど残念ながら、長らく、自分の納得のいく答えは見付けられなかった。そして実は、そんな事を疑問に思っている人って結構いるのではないでしょうか。
 したがって今回からは数回にわたって、僕が音楽を創っていくにあたって何に留意しているか。そんな事を記していこうと思います。


 【本番のはなし・舞台上でする事】

 それでいて「なぜいきなり本番の話になるんだろう」と思われるかもしれません。まずは、どういう練習をしているのか。それを記すのではないのかと。

 しかし実は、そこが一番の盲点なのだと考えています。なぜかと言えば、本番で演奏するために奏者は練習するからです。当たり前の事だと思えるかもしれませんが、これが一番重要な事だと僕は考えています。
 つまりは、本番にどのような音楽をするのかを常に想像して練習しなくてはいけない。その理想に向けて練習しなければ、いつまで経っても"練習の段階"を抜け出せない。はじめにやりたい音楽があって、それを実現するために普段の練習をするべきなんですよね。

 一つのイメージとして、積み木のように練習を重ねたうえに音楽があると言うよりも、やりたい音楽のイメージに吸い上げられるように練習する方が良いのだと思います。そうしないと、出来ないことを繰り返すだけの練習になってしまいがちではないでしょうか。
  

▼さて、僕も昔は、本番前にどうしていいか分からずに、本当に子猫のように怯えていた時期がありました。いろいろな心配、特に暗譜についての心配が襲ってきて、本番前夜などは、頭の中で曲を繰り返しては暗譜が分からなくなったり、楽譜を何回も見直しちゃったり。本番直前も目の前が真っ暗になるような経験を、何度もしました。
 でもじゃあ、なんでそんなに怖いのかが長年分からなかった。失敗が怖い、暗譜が飛ぶのが怖い、暴走が怖い、滅茶苦茶になるのが怖い。色々と怖いことは分かっているけれど、では何故?と言えば、これが分からなかった。
  『分からない』という事は、不安の要素の一つです。逆に、ではどうするかが分かれば怖さも軽減されます。

 この疑問に対する一つの答えとして、ある時に『自分は舞台上で何をするべきかが分かっていないんだ』と言う結論へ至りました。僕にはこれこそが、日々の生活から練習に至るまでに、演奏者が理解すべき最大の事柄のように思えます。

 では舞台上ですべきことは何か。
 それは【やりたい音楽を自由に奏でること】です。
 当たり前の話のようです。しかし、当たり前のことが常に最も大切なのです。

 舞台の上で僕たちは"なにがしたい"のか。やはり一番は"自分の最高の演奏をしたい"に違いありません。


 自分の記憶力を披露する場所や、勝利を勝ち取る場所では決してありません。失敗を恐れたり、気負って興奮してしまったり。これらはすべて自分の奏でたい最高の音楽を忘れてしまった結果ではないでしょうか。

 したがって、舞台では誠心誠意を尽くして良い音楽を奏でる場所だという事を、演奏者は、血肉になるように意識する必要があります。

 でも、それがしたくても出来なく困ってるんじゃん!!じゃあどうする!?
 次回は本番のルーティーンについて。

2016年3月22日火曜日

ピエール・アンタイ チェンバロリサイタル clavecin 

 今日はチェンバロ奏者のPierre Hantaïのリサイタルを聴いてきました。ので、ちょっとだけ感想を。

 プログラムはこちら↓

 Prélude, fugue et allegro, BWV 998
Johann Sebastian Bach
 Choral "Jesus, meine Zuversicht", BWV 728 Johann Sebastian Bach
 Suite anglaise n° 4, BWV 809 Johann Sebastian Bach
 Sonata, BWV 964 Johann Sebastian Bach

▼3月21日はJ.S.Bachの誕生日だったんですね。(ユリウス暦による。1685-1750)
 それもあり今回のプログラムでは、そのすべてをバッハに割かれました。
 実は、本格的なチェンバロのリサイタルを聴くのは初めてだったのですが、本当に行ってきてよかった。ごめんなさい。感想を書くと言っておいて、ちょっと言葉には出来ない興奮を覚えるリサイタルでした。
 弦を引っ掻いて出すチェンバロの心を突き刺すような音と、石造りの教会にちょうどよく響く残響。そして、彼の音楽に対する熱がダイレクトに耳に伝わってきて、心を揺さぶられました。

 楽器としてのチェンバロの素晴らしさも再認識しました。
 現代のピアノと比べると鍵盤の数が少ないはずなのに、現代のそれを凌駕する音域の深さと奥行き。音の減衰から生まれる浮遊感。楽器の構造的に音の強弱は付けられないはずなのに、これを音符の数で音色に厚みを持たせる作曲技法。音の長短で強弱を表現したり、レガートでペダルのような効果を生み出す演奏技法。本当に奥が深い楽器です。

 アンコールではスカルラッティのK.175を弾いてくれました。ギターをかき鳴らすような弾き方と不協和音の組み合わせが最高。バロックの時代って整っているだけでなく、実は不協和音を効果的に用いて、心へ訴え掛けるように作曲された曲が多いんですね。だから、思っている何倍も演奏効果は自由で、躍動的なんです。それが今の時代にあっても斬新な印象を与えてくれます。

▽そういえば演奏会の最中不意に、本当に突如として、なんで勉強ってしなきゃいけないのか?と云う事を悟りました。
 算数にしても国語にしても何にしても、あれは自分の中の"感覚の幅"を広げる為に絶対に必要なんです。よく言う"感性"ってやつですね。その感性を形作るための基礎が勉強なんです。例えば2倍ってなんなのか。2×2=4って何なのかを知らなければ、他の物事を感覚的に捉える土台の一つが失われているって事だと思うんです。
 だから、生きていく為の実用に適うから勉強するんじゃなくて、そういう小さいものを積み重ねて感性を育むために勉強って必要なんだなと。本当に突如として悟りました。なんのこっちゃ。

 さて、話によると日本で行われるラ・フォル・ジュルネでも彼は演奏するのだとか。チケットはまだあるのかな??機会があれば、是非とも足を運んでみてくださいね。

 
 

2016年3月11日金曜日

パリの現場を歩く

 パリへ行ったもう一つの目的。それは昨年の11月13日に起きたテロの現場を廻る事です。
 今回は少しだけ廻れた現場について記します。


パリ北駅にて。金属探知機での検査

▼パリ北駅に着いて最初に目に入ってきたのは、ヨーロッパの高速鉄道であるThalys(タリス)乗り場に設置された検問でした。テロが起きて以降、乗客は出発20分前にホームへ着いて、荷物のチェックを受けています。乗客には多少の不便となりますが、やはり安全には代えられません。みなさん普通の事として検査を受けていました。

 ちなみに下の写真は、ブリュッセルのThalys乗り場へ向かう道なのですが.....





 見ての通りスカスカ。なんの検査もありませんでした。これはあべこべで、パリにテロリストが入って来ないようにするための検査じゃないの?と思ってしまいました。一応パリに着いたホームでは警官が4人立って目を光らせてましたが、それだけでいいのかなぁ。
(アラブ系の方を捉まえては、チェックしているらしいです)

 テロリストは目立ってなんぼなので、やはりブリュッセルでテロを実行するよりも、パリで実行すると思うのですが、ここらへんのアベコベ感は、ヨーロッパ特有の緩みなのかなぁと感じました。


現場であるBichat通りの最寄り駅

▼パリに着いたその足で向かったのは、先日起きたテロの現場です。

 "テロが起きた場所"ということで少し緊張して赴いたのですが、実際に現地へと着くと拍子抜けするほどの普通の場所でありました。現場は、有名なシャンゼリゼ通りなどの華やかな場所ではありませんが、私の知っているパリ。パリっ子が生活する"普通のパリ市"でした。

現場のcafe CaRillon. このカリオンとは鐘の事
目線。向こうから車でテロリストがやってきて銃を乱射
お店の隣には鎮魂のメッセージが

お花も捧げてありました


 僕がそこを訪れたのは早朝であったので、お店はまだ閉まっていました。

 しかし夜には絵にもあるように、のんびりとお酒を楽しんでいたんだろうなぁ。
 まさかここがテロの標的になるのか??というような場所で、本来ならテロのターゲットになる場所ではないのです。それだけに、これからのテロをいかにして防止するかの難しさを、改めて考えてしまいます。

 壁に貼られたメッセージには、犠牲となった友人たちへ思いを寄せる言葉が綴られており、ここがみんなの憩いの場であったことを思わせます。なんとも、胸が締め付けられる思いです。

 
バタクラン劇場

 次に僕はバタクラン劇場へと赴き、そこでは白バラとベルギービールと祈りを捧げてきました。


画面右手にはフランス国旗が掲げてある
銃弾によってエグれる壁。この破壊力が人に当たる場面は想像を絶する。

泥棒防止の柵が、皮肉にも避難の妨げになりました。

あなたはもうここにはいない、じゃああなたはどこへ。あなたはいつも私達の傍にいる。





 現場から戻った今、私が改めて思うことは、僕が訪れたテロの現場は"テロの起こった場所"ではありますが、実は、"普通の生活の中で不意にテロが起きた"のだ」と言う事です。
 つまり、パリを見る視点が"テロの現場"から"日常の現場"へと移り変わりました。だからこそ、今回の市民を狙う卑怯なやり方や、犠牲になった方々とその家族・友人の悲しみが身近に感じられました。こういう"本当に当たり前のこと"を感じることが、現場を見る意義なのかもしれません。
 現場を回ったその後は、一日パリの街を歩きましたが、そこには普通のパリの日常がすでに戻っていました。


▼さて、今回のようなテロを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか。日本も他人事ではありません。
 日本では銃器によるテロは起きにくいと考えられますが、しかし、オウム真理教による地下鉄サリン事件や、日本赤軍による航空機のハイジャック事件などをはじめ、実は沢山のテロが起きています。特にサリンのような目に見えない物のテロは防ぐことが難しく、また、実行に移すのが容易いテロでもあります。
 だからこそ、このようなテロは未然に防ぐための備えが必要なのではないでしょうか。
 国家権力が情報を収集し、事が起きる前に防ぐような法整備が必要と思います。しかしそこには、個人情報などを国家に探られるという問題もあります。この問題を僕たちはどう考えるべきなのでしょうか?

 そこで僕が思い出すのがパリThalysでの検査です。
 乗客は不便を強いられますが、その代償として安全を手にします。
 リスクとメリットを如何に両立させるか。これは表裏一体なのではないでしょうか。

 もちろん国家による行き過ぎた情報収集は糾弾されるべきですが、いまの日本では個人の自由や権利ばかりが過剰に重んじられ、国家の大前提である"命を守るための役割"が疎かになっている気がします。
 テロの時代に入った現代にあって、日本人も本気になって、自分の愛する人を守るためには何が必要なのか、自分たちは国に何を求めるべきなのかを真剣に考える時が、既に訪れているのではないしょうか。


▽今回パリを歩いていて気になったのは、日本人の姿を"一人も"見掛けなかったことです。きっと先日のテロ事件以降、警戒をされて皆さんパリへいらしていないのかな。人づてに耳にしていましたが、これほどまでとは思いませんでした。
 僕が歩いたところ、パリは既にいつものパリです。むしろアジアの観光客が減っていて過ごしやすい。ルーブル美術館も通常なら最低1時間は並ぶのですが、今回は待ち時間なしに入ることが出来ました。これは、パリを満喫するには今がチャンス!!だと思います。

 テロに遭う危険がゼロとは言えません。しかしそれは日本にいてもどこにいても、生きている限り、何かに巻き込まれるリスクというものは常に付きまとうものです。そしてその確率は、日本でもパリでもさほど変わらないのではないでしょうか。せっかく人が少なくなっているパリなので、旅行をお考えの方は検討してみてくださいね。

2016年3月10日木曜日

"パリ"という名の美術館

 本番一週間前という時期ではありますが、友達との弾きあい等も含めて、花の都のパリへと赴いて来ました。今回はその思い出のまとめを記します。


St-Lazare駅


▼ブリュッセルから高速鉄道で約1時間30分。早朝の電車に乗ってパリへと行って来ました。ベルギーにお引越しをしてから既に2年になるのですが、その間に一度もパリへとは戻らなかったので、本当にひさしぶりの訪仏でした。

 パリ北駅につくと、国鉄であるSNCFのあのテーマを耳にして、なんとも感慨深い気持ちになり、パリの空気にも新鮮なものを感じました。
 そんな新鮮な気持ちも少し駅を歩き出すと、むしろ今もここに住んでいるような錯覚を覚え始め、そして駅の看板を見れば、昔住んでいた町へと続く電車の案内が。今夜はその家に帰らないという現実は、なんだか不思議な心持ちであります。

 パリには大きな才能を持つ人々が集まります。そういう人達に会うことが今回の目的の一つでした。
 情熱を燃やし続ける友人や良い音楽のセンスを持つ後輩、天賦の才能を持つ後輩。そんな人たちに会うと、自分が井の中の蛙になることを戒めてくれ、次へ向かうために僕のお尻を叩いてくれます。
 また、そんな友人たちとの会話は非常に張り合いのあるもので気持ちがいい。人生の悩み・音楽の悩みや、人間関係の悩みなどの日常会話も、真剣な人たちとの話は面白いものですね。


Jardin des Tuileries

 そして何と言っても、パリの魅力の一つは芸術です。パリには沢山の美術館があり、その内容も多種多様であります。美術館だけではなく、パリの街並みや公園は本当に美しく、パリは街が丸ごと美術館のようです。街の中をお散歩するだけでも、素敵な経験となります。

▼さて、今回の訪巴ではロダン美術館とルーブル美術館へ行って来ました。

 ロダン美術館へは友人の勧めもあり赴いてみました。あまり彫刻の見方は分からない僕なのですが、中庭にいる彫刻達の横を通り過ぎるのは、なんだかその時代の人々と時を同じくしているような感じがして面白いものです。そう思えるほど、彫刻の質感などがリアルなのかもしれません。


彫刻達


 この美術館の展示の中には何故かゴッホとムンクの絵があり、きっと何かしらの繋がりがあるのだろうなぁと思いながら......(案内をきちんと見ればきっと何かしらが書いてあるのでしょうが)


 ロダンと言えば有名なのは"考える人"ですが、あれは"地獄の門"の作品の中にある彫刻の一つなんですね。(単体の"考える人"もあります)
 この"地獄の門"が大変に面白かった。実物は自分が思っているよりも小さい作品で、遠目に見ると平面的に見える作品なのですが、これが門に近づけば近付くほどに立体感を増して行き、さぁその門が開かれようかと云う程の近さまで行くと、あちら側へと吸い込まれそうな感覚に襲われました。機会があれば、皆さんにも体験して頂きたいです。


地獄の門

▽ルーブル美術館では日程の関係で一時間弱しか滞在できませんでした。
 ロダン美術館へ行ったこともあり、今回は彫刻のコーナーへ。石とは思えない彫刻達の、筋肉の隆起や柔らかい肌を感じたのちに、17世紀のフラマン芸術の区画へと僕は足を運びます。(やっぱりブリュッセル・ラヴです)

 それにしてもルーブルの展示物の質と量は凄い!!

 このフラマン区画には、壁一面にタピスリーが"ずぅらーーーーーっ"と掲げてあり、この区画だけでも一つの美術館になりうる展示物に圧倒されました。そしてルーブルにこんな展示があるなんて知らなかった。もう一度パリに住むことがあれば、次はルーブルの全てを知り尽くしたい思いです。



ズラじゃない、カツ.....

 パリの文化力はやっぱり凄い。パリの街全体が一つの美術館のようで圧倒されます。住んでいた当時はそのように思わなかったのを悔しく思いつつ、成長して戻って来れた証かなとも思いつつ、またパリを訪問してみたいなと思いました。

 さて、大まかですが今回のパリ訪問の芸術編を記してみました。もう少しだけ写真も撮ったのでphotoの方で掲載しようと思います。

 次回は、もう一つの目的であった"パリの現場"を巡った感想を少しだけ記すつもりです。
 

2016年3月7日月曜日

三月二日 グレゴリー・ソコロフ ピアノリサイタル

 ブリュッセルでは毎年の恒例となっているソコロフのピアノリサイタル。
 今年も喜び勇んで行ってまいりました。
 と、せっかくなので感想やらを忘れないように、また一端の音楽家らしく、記してみます。

 プログラムはこちら↓

 Arabeske, op. 18 Robert Schumann
 Fantaisie, op. 17 Robert Schumann
 pause
 2 Nocturnes, op. 37
Frédéric Chopin
 Sonate pour piano n° 2, op. 35 Frédéric Chopin

 これまでの彼の演奏で、特に印象に残っているのは、ベートーヴェン7番ソナタとショパンの3番ソナタの演奏です。
 ベートーヴェンでは、作曲者の意図したすべての表現を、余すことなく完全に再現し、そして彼自身の解釈と一体化させた見事な演奏でした。またショパンも同様に、一つの音も疎かにしない、恐ろしく洗練された音楽表現であって、聴き手にも相当の集中力を求めてくる演奏でありました。

 さて、そんな彼の演奏を聴いてきたので、否が応にも期待は高まります。

▼シューマンのArabeskeから始まった演奏会は、始まった途端からソコロフの世界で「お、来たな」と心の中で嬉しさを噛み締めました。しかし一旦Fantaisieが始まると、いつものソコロフの音ではない音で始まり、終始その粗暴な音で曲は進んでいきました。
 疑問が一気に膨れ上がる一方で、曲のキャラクターを"故意に"際立たせているのかとも思い、なんだかcarnaval 謝肉祭の様相もあって(季節的にも)楽しく賑やかな演奏であるとも思いました。粗暴なFFは残念でしたが、ペダルの使い方や旋律の歌い方の部分で、なるほどと思える部分も沢山あり、とても勉強になりました。
 
 僕にとっては、以前のショパン3番ソナタの強烈な記憶もあるからか、今回のショパン2番ソナタは更に納得の出来ない演奏でありました。各々のアーティキュレーションを尊重していると言えばそうなのかもしれないのですが、許容範囲を大幅に超えてはいないか?との疑問が残ってしまう演奏。そしてやはりシューマンと同様に粗暴な音が目立ってしまい、洗練されたショパンとは程遠いものだったと思います。
 しかし、3楽章の途中までと4楽章だけは、素晴らしい彼の『正解』の演奏を示してくれました。特に4楽章は『こうあるべき』という演奏を示してくれて「これぞソコロフ」という解釈を、最後の最後で示してくれました。

 プログラムとは対照的に、(いつものように)30分にも及んだアンコールの小品群は、恐ろしく洗練された作品ばかりで、全てが印象深く、そして興味深い演奏でした。これを聴くだけでも価値のある演奏会だったと思います。
 
 全体として、ソコロフはいつも僕に『正解』の一つを示してくれるピアニストなので、その分の消化不良を今回は大いに感じたんだと思います。しかし、いつでも『正解』を出せる訳ではないという意味では、とても思い出深い演奏会の一つとなりました。