今回は、自分語りを。長々と手短に。
僕が音楽家になるまでの14年間の変化について。
▼意地で続けてきた音楽
僕が真剣に音楽に取り組み始めたのは高校受験の時。音楽を専門にする高校があると聞き、勉強より音楽の方が"楽"かなぁと思って受験をしたのでした。
しかし、当時受験の為に通った先生から「この子は受からない」と言われていて、あきらめるように促されていたのですが、諦めきれずに他の先生を紹介してもらうような始末でした。
そして泣き泣きの猛練習の末、なんとか合格したのですが、先生から「あなたは40人中40番目で入学しました」と言われたのを鮮烈に覚えています。
それからは、自分よりも評価の高いやつらに負けるのが悔しくて、いい点数をとるために音楽をしていました。「絶対こんなやつに負けているわけないのに、なんで俺は良い点数じゃないんだ!!」などと思っていました。
そんな高校での日々の結果、大学も音楽大学へと進むわけですが、そこでもまた紆余曲折あり、叩き落とされる経験をするわけです。
▼大学時代
大学は、それから長く付き合う事となる友人に出会えた素晴らしい場所でありました。しかし同時に、とにかく辛い苦悶の時期でもありました。
先生に習うことは実行しているはずなのに一向に上手くならない。それどころかドンドンと下手になっている気がする。練習の為にピアノに向かうと、背中の後ろから重たい物にのしかかられている様に感じる。自分のやりたい音楽が分からないどころか、何が楽しいのか、なにが正しいのか、なにが美しいのか、そしてどうしてそうするのかが全く分からない。
とりあえず和音の上の音を出して、リズムを正確に弾いて、、、こんなんで自分はピアノを弾いている意味はあるのか。自分の良いところはどこなのか。
自信も失くし、悔しさと憤りと屈辱感だけが募る日々でした。
いまから思うと、実はこの時代が僕の原点となっていて、「自分のような生徒を少しでも減らしたい」と思うきっかけとなる日々でしたが、戻りたくはない日々です。
▼海外へ
大学4年になり進路について考えていた頃でした。それまでは考えもしなかったのですが、知人の勧めで海外留学を考え始めます。大学四年の5月頃だったかと思います。自分の中でも、このままでは大学院には進めないという閉塞感があり、その折に「また二年間ココに通い続けるの?」「若いうちの、感動の力があるうちに海外に行って欲しい」という言葉に背中を押してもらい、留学へ向けて動き始めます。
今となっては、僕の人生を変えた素晴らしい選択でしたが、当時は先の見えない模索の中の選択でした。
▼ナンシー国際音楽祭
まずは先生探しとして日本でマスタークラスを受けました。そこで運よく「この先生に習いたい」という方に出会い、引き続きレッスンを受けるために夏の講習会に赴きます。
初めての海外。飛行機。。。
夕方にパリ東駅に着き、言葉も分からない、なにを食べていいのかも分からない中、東駅で買ったサンドイッチとビールの味は格別でした。"これからここで生活していくんだ"と思いながら見た景色は目に焼き付いています。
翌日ナンシーへ移動して講習会も始まるわけですが、フランス語なんかド初心者な僕は、先生がなにを言っているのかサッパリな訳です。通訳は頼みませんでした。それでもどうにか雰囲気とジェスチャーを汲みとって理解しました。
そうだ。いい思い出として。
講習会期間中に突然の雨が降ったことがありました。
いわゆるゲリラ豪雨だったのですが、雨が止んだ後に、ナンシーの石畳を流れる水は、太陽に輝いてとても幻想的でした。教会に入ってみると、ステンドグラスが日差しを受けて、やわらかい彩りを表現していました。
留学を決断してよかったと思った、一つの瞬間でした。
▼フランス時代・パリ
パリ生活一年目は、これもまた叩き落とされて始まります。当初目指していたパリ地方音楽院には入れず、エコールノルマル<école normale musique de Paris>へと入学します。
一年目はすべてが混乱のなかにありました。部屋探し・ピアノ探し・ビザ・ビザ・visa・visa....とにかくあっという間に過ぎ去った一年です。
二年目は前年の念願を果たし、パリ地方音楽院に入学します。
ここで2年間お世話になったのが恩師、Billy Eidi先生です。素晴らしい人格者であり、教育者であります。彼の音は、ナンシーの教会で目にした光そのものです。
彼の手により、僕のピアニストとしての土台作りが為されました。
音の聞き方・タッチについて・楽譜を読むことについて。すべての音楽に関する土台が、彼によって形作られました。この頃やっとで少しずつ、音楽のやり方が分かりはじめ、もっと上手に弾きたいと思う気持ちが芽生え始めた頃でした。まるで畑の土を丁寧に耕すような日々だったと思います。
しかし残念ながら学校の規定で2年間しか在学できなかったので、次の学校について検討を始めます。ふと、「音楽で生きていくには修士は最低限必要」との言葉を思い出し、フランス語圏で修士過程を模索し始めるのでした。
続く≪ブリュッセルでの日々≫
続く≪ブリュッセルでの日々≫
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