2018年2月26日月曜日

Cafe Rune Concert


 先日は、友達のご家族の経営されているカフェに御協力を頂いて、第1回目のカフェコンサートを催すことができました。

 このコンサートの趣旨は、来てくださる方々の目を覗き込める距離で、音楽の面白さ・その曲をどう面白いと思っているのかをお話ししながら、より深くクラシック音楽に触れていただく機会を設けることにあります。

 初めての企画をしてみて、自分自身で気付いた事や改善点なども見付かり、また幸いにも皆様にも喜んでいただけたようで、嬉しく思っています。

 これからこのような機会を各地で設けて、少しずつクラシック音楽ファンを増やせたら良いなと考えています。

 ここでも改めて、御協力下さったCafe Runeの方々と、いらして下さった方々に感謝の気持ちを示します!!ありがとうございました:)))




"指先"の動かしかたについて

 今回は、ピアノ演奏をグッと上達させる指先の動かしかし方について

▼タッチは指先から作る

 僕が目にした多くの教則本には「肩は背中の肩甲骨から.....」と書いてありました。それはその通りなのですが、僕からしてみると「それでどうすれば?」と言うような状態でした。
 たとえ肩甲骨からエネルギーが発生しても、音を作り決定するのは指先です。指先で鍵盤をコントロールする感覚をつかみ、表現によって手首・肘・肩・腰とエネルギーを足していく方法が良いでしょう。
(実際多くの場合、全ての部位のエネルギーをMixして用います)

▼指先のタッチ

 指先のコントロールを感じるためには、最小のタッチがどこから生まれるのかを知る必要があります。タッチは指先から作るので、指先で作るタッチが最小です。この最小のタッチを"指先のタッチ"とします。

 肝心なのは、この指先のタッチがどこから始まるのかと言うことです。

 この動きは指の末節骨の根元から始まり、ここを動きの始まる起点とします。
また、この起点は必ず指の内側にあります。
 末節骨の根元から指先を動かす感覚と、鍵盤を捉える感覚、そして末節骨の根元を鍵盤の底に落とすような感覚を、練習で掴みましょう。




▼足先の意識もあげる

 指先だけに集中しようとすると、一点に集中し過ぎて体が強ばってしまうことがあります。肩凝りの原因でもあり、音に対する感度を鈍らせる原因でもあります。
 それを和らげるためにも、指先と同時に、もう片方の先端である足先を意識に上げることによって、より高次元の感覚を得ることができます。

まとめ
・指先タッチは末節骨から
・鍵盤を捉える感覚を養う
・足先も意識にあげる


⇒次回は"指"の動かし方について

2018年2月19日月曜日

座ること

 今回はそのまま。座ることについて。
 ピアノを弾かれない方も、普段の生活の中で役立てることが出来るので是非実践してみてください。

▼理想の姿勢

 理想の姿勢とは、いったいどのような姿勢でしょう。一般的に想像されるのは、背筋をピンっとのばしている状態を思い浮かべられるかも知れませんが、実はそれは理想の姿勢ではありません。
 最も理想的な姿勢では、全身の筋肉は無理なく緩み、それにも関わらず全身のバランスは保たれています。

 それを実現するのは簡単で、頭の上に風船がついているのをイメージすることによって、全身のバランスが整えられます。
 
▼足・腰・頭を常に意識にあげる

 更に、身体の両端である、そしてこの中間に位置するを意識に上げましょう。ここで言う腰とは仙骨の事です。

 頭のテッペンから、背骨の真ん中を通り、足の真ん中へ。
 三点から成るあなたの軸が身体を貫いていることを感じましょう。
 頭に風船がついているイメージも忘れないでくださいね。

 他の方法として、座禅をくむ姿勢をとってみましょう。お尻の下に太めの座布団を入れると、座りやすくなります。

 目を瞑り、左右にゆっくりと身体を揺らしてみます。あなたの身体の中心を感じてみましょう。次に身体を前後にゆっくり揺らして、あなたの中心を感じてください。
 ここで感じるあなたの中心は、目で見た時に真っすぐでなくても構いません。
 
 一人一人の身体は歪んでいるので、その中であなた中心を見つけることが大切です。
 この時も、頭の上にある風船はイメージしてくださいね。 

 あなたの中心を見つけることによって、全身の筋肉の緩みを知ることが可能となり、筋肉の状態を知ることが出来ます。 

▽ピアノを弾くときは手・足・腰を意識する

 前回ピアノを弾く際の体勢として、手・足・腰の三点を意識すると、捉えられる空間の範囲が広がると記しました。この三点に頭を加えることによって、より意識的な演奏が可能になりますが、頭については、始めのうちは徐々に意識していけばよいと思います。 
 
▼ピアノ椅子の高さはどれくらい?

 椅子の高さは、各個人の体型に合わせて決めるものですが、ここにも基準があります。

①まずは左手で握りこぶしを作ってください。
②そのこぶしを、小指側を下にして鍵盤の上に乗せてみましょう。
③こぶしを鍵盤に乗せた際に、肘が鍵盤より上にある状態にします。
④鍵盤に対して、こぶしが水平か、それより高くある状態が理想的です。
⑤こぶしは鍵盤に置きっぱなし。その状態で鍵盤の下にスッと重さが落ちる感覚があればベストです。

 このように椅子を設定されると、その高さに驚かれるかもしれません。しかしこの高さには理由があります。

①前腕を持ち上げる筋肉を使わない
②肘がゆるやかに曲がるので、腱への影響が少ない
③結果、指先から足までの連結が易くなる
④音を聴く耳の位置が上がり、よく音が聞こえるようになる。
⑤つまり、うまくなる

まとめ
・頭・腰・足の三点を意識に上げ、頭の上に風船についていることをイメージする。
・身体の中心を感じる事によって、筋肉の緩みを感じることが出来る。
・椅子の高さは、肘が鍵盤より下にならないように。


⇒次回は指先の動かし方について

2018年2月16日金曜日

身体の捉え方 ~ 一つの身体として機能するためのポイント ~

 今回は、ピアノに向かう際の演奏者の"体勢"について。
 大まかにポイントを押さえて記そうと思います。

【大きな三つのバランス 足・腰・手】

▼僕たちの持っている身体は非常に高性能です。
 例えば平均体重で言えば男性は66kg・女性53kgですが、この重さをものともせずに、僕たちは走り回ったり飛び回ったりできます。これは、僕たちが本来持っている身体のバランス調整機能が如何に素晴らしいかを物語っていると思います。。。思いません??

 例えば10kgの荷物でも運ぼうとすれば、それはそれなりに重さを感じて、あなたの自由は阻害されるでしょう。しかし、あなたが10kgほど太ってしまった場合、以前より身軽な動きではないでしょうが、あなたは自由の動き回ることが出来ることは、容易に想像できます。
 動物には本来的にこのバランス機能を備えており、ピアノの演奏にこの機能を活かさない手はないでしょう。

【腰は身体の要・重心】

 どのスポーツにおいても、身体の"重心"を捉える事は、その道で上達をするには欠かせない事です。野球・サッカー・柔道・相撲・レスリングetc.....どスポーツでも、重心をいかに捉え動かすかは、勝負の分かれ目になります。
(野球の投手なら、ピッチング時の重心移動。サッカーでは一対一での勝負の際。柔道はいかに相手の体勢と崩すか。。。)
 最も重要なのは"腰"の使い方です。身体を全体的に見た際に、腰が身体の中心に来ています。ここに重心を感じているか否かで、運動性能は大きく変化してきます。

  "腰"と言う漢字は、身体を示す"月"(ニクヅキ)に"要"と書きます。
 名は体を表すと言いますが、諺とは、いつもその核心を突いていますね。

 この腰の重要性は、ピアノ演奏に於いても例外ではありません。

 "腰の重心"が定まっているか否かは、あなたの身体が自由になり、あなたの演奏が自由になるための必須条件です。


 腰の重心は、演奏時に身体の支点となります。
 そして一方で、腰が重心になるという事は、重心を作っている他の点があるという事です。
 その重心を作っている他の点が"足""手"です。演奏者がピアノの前に座っている際には、足と手の中間地点腰の重心が存在していることを、十分に意識しましょう。
すると、あなたの演奏時に捉えられる空間の範囲が格段に広がることが感じられるでしょう。

 ここで一つ気を付けて欲しいのが、"腰"の位置についてです。おそらくみなさんが思う腰は、おへその周りの事を想像されているのではないでしょうか。
 実は、僕が感じて欲しい腰の位置はそこではなくて、もう少しだけ下で奥の場所。背骨の一番下にある仙骨の部分です。そこを体の中心・支点として捉えると、あなたの上体は軽くなり、自由になるための土台となります。





まとめ
・自由になるためには、身体の重心を感じることが大切。
・支点となる場所は、背骨の先端にある仙骨。
・手・足・腰の三点を感じて重心を感じると、演奏時に捉えられる空間が広がる。

 今回はここまで。次回は"座ること"についてついて記します。

2018年2月5日月曜日

僕はクラシック音楽が好きじゃなかった。

これは<高校から大学・フランスへ><ブリュッセルでの日々>の全編版です。


今回は、自分語りを。長々と手短に。
僕が音楽家になるまでの、14年間の変化について。

▼意地で続けてきた音楽

 僕が真剣に音楽に取り組み始めたのは高校受験の時。音楽を専門にする高校があると聞き、勉強より音楽の方が"楽"かなぁと思って受験をしたのでした。
 しかし、当時受験の為に通った先生から「この子は受からない」と言われていて、あきらめるように促されていたのですが、諦めきれずに他の先生を紹介してもらうような始末でした。
 そして泣き泣きの猛練習の末、なんとか合格したのですが、当時の先生から「あなたは40人中40番目で入学しました」と言われたのを鮮烈に覚えています。
 それからは、自分よりも評価の高いやつらに負けるのが悔しくて、いい点数をとるために音楽をしていました。「絶対こんなやつに負けているわけないのに、なんで俺は良い点数じゃないんだ!!」などと思っていました。
  そんな高校での日々の結果、大学も音楽大学へと進むわけですが、そこでもまた紆余曲折あり、叩き落とされる経験をするわけです。

▼大学時代

 大学は、それから長く付き合う事となる友人に出会えた素晴らしい場所でありました。しかし同時に、とにかく辛い苦悶の時期でもありました。
 先生に習うことは実行しているはずなのに一向に上手くならない。それどころかドンドンと下手になっている気がする。練習の為にピアノに向かうと、背中の後ろから重たい物にのしかかられている様に感じる。自分のやりたい音楽が分からないどころか、何が楽しいのか、なにが正しいのか、なにが美しいのか、そしてどうしてそうするのかが全く分からない。
 とりあえず和音の上の音を出して、リズムを正確に弾いて、、、こんなんで自分はピアノを弾いている意味はあるのか。自分の良いところはどこなのか。
 自信も失くし、悔しさと憤りと屈辱感だけが募る日々でした。

 いまから思うと、実はこの時代が僕の原点となっていて、自分のような生徒を少しでも減らしたいと思うきっかけとなる日々でしたが、戻りたくはない日々です。

▼海外へ

 大学4年になり進路について考えていた頃でした。それまでは考えもしなかったのですが、知人の勧めで海外留学を考え始めます。大学四年の5月頃だったかと思います。自分の中でも、このままでは大学院には進めないという閉塞感があり、その折に「また二年間ココに通い続けるの?」「若いうちの、感動の力があるうちに海外に行って欲しい」という言葉に背中を押してもらい、留学へ向かって動き始めます。
 今となっては、僕の人生を変えた素晴らしい選択でしたが、当時としては先の見えない模索の中の選択でした。

▼ナンシー国際音楽祭

 まずは先生探しとして日本でマスタークラスを受けました。そこで運よく「この先生に習いたい」という方に出会い、引き続きレッスンを受けるために夏の講習会に赴きます。

 初めての海外。飛行機。。。

 夕方にパリ東駅に着き、言葉も分からない、なにを食べていいのかも分からない中、東駅で買ったサンドイッチとビールの味は格別でした。これからここで生活していくんだと思いながら見た景色は目に焼き付いています。
 翌日ナンシーへ移動して講習会も始まるわけですが、フランス語なんかド初心者な僕は、先生がなにを言っているのかサッパリな訳です。通訳は頼みませんでした。それでもどうにか雰囲気とジェスチャーを汲みとって理解しました。

 そうだ。いい思い出として。
 講習会期間中に突然の雨が降ったことがありました。
 いわゆるゲリラ豪雨だったのですが、雨が止んだ後に、ナンシーの石畳を流れる水は、太陽に輝いてとても幻想的でした。教会に入ってみると、ステンドグラスが日差しを受けて、やわらかい彩りを表現していました。
 留学を決断してよかったと思った、一つの瞬間でした。

▼フランス時代・パリ

 パリ生活一年目は、これもまた叩き落とされて始まりました。当初目指していたパリ地方音楽院には入れず、エコールノルマルécole normale musique de Parisへと入学します。

 一年目はすべてが混乱のなかにありました。部屋探し・ピアノ探し・ビザ・ビザ・visa・visa....とにかくあっという間に過ぎ去った一年です。

 二年目は前年の念願を果たし、パリ地方音楽院に入学します。
 ここで2年間お世話になったのが恩師、Billy Eidi先生です。素晴らしい人格者であり、教育者であります。彼の音は、ナンシーの教会で目にした光そのものです。

 彼の手により、僕のピアニストとしての土台作りが為されました。
 音の聞き方・タッチについて・楽譜を読むことについて。すべての音楽に関する土台が、彼によって形作られました。この頃やっとで、少しずつですが音楽のやり方が分かりはじめ、もっと上手に弾きたいと思う気持ちが芽生え始めた頃でした。まるで畑の土を丁寧に耕すような日々だったと思います。

 しかし残念ながら学校の規定で2年間しか在学できなかったので、次の学校について検討を始めます。ふと、「音楽で生きていくには修士は最低限必要」との言葉を思い出し、フランス語圏で修士過程を模索し始めるのでした。

▼ブリュッセル時代・ベルギー王立音楽院(仏)

 「この入試に落ちたら、さすがに見込みないしな、ピアノやめるかな」

 音楽院の入学試験にはそんな心持ちで臨みましたが、無事に合格しました。よかった。
 修士時代に最も苦労したのはピアノではなく、一般教養の勉強・筆記試験です。
 音響学・社会学・心理学・法律・音楽史....etc。はっきり言って、フランス語の授業なんて一つも分からないわけで。。。テスト期間では、シラバスを何回も何回もノートに書き写して勉強をしました。おかげで腱鞘炎に!!(←ピアノでなったことがないのに)
 この勉強のおかげで、フランス語の能力は格段に上がりました。いま、多少なりともフランス語の書籍を読むことができるのは、この時の努力の賜物です。

 ピアノ演奏の面では試行錯誤の日々でした。技術面での成長はありましたが、音楽的な成長を感じられる事はありませんでした。だからこそ音楽院の卒業も迫りかけた頃に、留学生活をこれで終えていいのかと言う疑問が湧いてきたのです。

 だから、これで最後だと親に頼み込んで、"隣の"ベルギー王立音楽院(KCB)に入学するのでした。

▽古楽との出会い

 Bruxellesでの4年間での重要な変化の一つに"古楽との出会い"があります。
 そこでは縁があってルームシェアをしていたのですが、そのお相手の方がバロック・フルート奏者の方でした。その方やその周りの古楽奏者の友達との交流は、僕の音楽に対する見方・興味に多大な影響を及ぼしました。
 ほぼ毎日の夕飯時には音楽に関して、音楽が生まれた時代の奏法や習慣についての話を聞くことのできた貴重な時間でした。ここでの交流は、僕の飛躍から覚醒に至るまでの重要な足掛かりになったと感じています。


▼Koninklijk Conservatorium Brussel・飛躍から覚醒へ

 Post Graduatに入学し、ここでPiet Kuijiken教授と2年間を過ごすわけです。彼の最初のレッスンで言われた事は忘れません。

「君は頭がいいし、僕は君に良い影響を与えることが出来ると思う。だからきっと"君の人生が変わるよ"」

 今までこんなに心強い言葉を貰ったことはありませんでした。そして事実、彼は僕のピアニストとしての人生を変えたわけです。

 彼は僕に、楽譜の読み方を教えてくれました。それは、これまで受けたどのレッスンとも違うものでした。僕の中でバラバラに蓄積されていた情報が一気に統合されていく日々は、発見の日々であり、喜びの日々でありました。
 でも全てが順調であったわけではありません。本当に何回も成長の壁にぶつかって、これ以上は無理かもしれないと何度も思いました。挫けました。その分だけ成長も感じられたのですが、その分だけまた壁にぶつかるという日々でした。

▼留学最後のコンサートにて

 とてつもない成長を実感し、変化を感じ、沢山の知識と確信を得た2年間でした。
 だけども最後まで分からなかった事があった。

《音の響きを聴くこと》

 これはピアノを学習し始めて以来、各先生から言われ続けてきたことです。パリ時代に師事したBilly先生はこの点について、非常に具体的に説明をしてくれた稀な方でした。しかしそれでも僕には、音の"なにを"聴けばいいのかが分からなかった。
 でもね。最後の最後に分かったんです。
 留学最後コンサートのリハーサル中に、あぁこれを聴けばいいのか!!って言う感覚が。もふもふっと。

 コンサート後日に、友人から伝え聞いた先生の言葉には最高に感動しました。

『昨夜は特別なコンサートだった』


▼だからこそ僕は、意味があると思う

 僕はピアノを意地で弾いていました。負けるのが悔しくて、どうしていいのか分からないのが悔しくて、もがき苦しんでいました。しかし、そうしていく中で出会いがあり、気付きがあり、そしてついに音楽の喜びを知りました。これは知識を得る喜びであり、発見の喜びであり、なにより成長を実感する喜びです。

 僕はこれを伝えたい。僕の中に知識・経験として蓄えられ、そして"体系化された認識"となったこの成長を共有したい。そして共に成長していきたいと思います。
 更に、この成長の力は音楽業界に限らず、異業種の方とでも分かち合えるものと信じています。ピアニストとしての枠組みを越えて、内なる可能性を刺激する音楽家でありたいと思います。
 僕はまだまだ成長します。今もまた新しい成長を実感しています。これからも成長を続けます。

 成長し実感する事、それが最上の喜びです。
 僕はいま、クラシック音楽を愛しています。

僕はクラシック音楽が好きじゃなかった。<ブリュッセルでの日々>

前回の続き

▼ブリュッセル時代・ベルギー王立音楽院(仏)

 「この入試に落ちたら、さすがに見込みないしな、ピアノやめるかな」

 音楽院の入学試験にはそんな心持ちで臨みましたが、無事に合格。よかった。

 修士時代に最も苦労したのはピアノではなく、一般教養の勉強・筆記試験です。
 音響学・社会学・心理学・法律・音楽史....etc。はっきり言って、フランス語の授業なんて一つも分からないわけで。。。テスト期間では、シラバスを何回も何回もノートに書き写して勉強をしました。おかげで腱鞘炎に!!(←ピアノでなったことがないのに)
 この勉強のおかげで、フランス語の能力は格段に上がりました。いま、多少なりともフランス語の書籍を読むことができるのは、この時の努力の賜物です。

 ピアノ演奏の面では試行錯誤の日々でした。技術面での成長はありましたが、音楽的な成長を感じられる事はありませんでした。だからこそ音楽院の卒業も迫りかけた頃に、留学生活をこれで終えていいのかと言う疑問が湧いてきたのです。

 "これで最後だ"と親に頼み込んで、"隣の"ベルギー王立音楽院(KCB)に入学するのでした。

▽古楽との出会い

 Bruxellesでの4年間での重要な変化の一つに"古楽との出会い"があります。
 そこでは縁があってルームシェアをしていたのですが、そのお相手の方がバロック・フルート奏者の方でした。その方やその周りの古楽奏者の友達との交流は、僕の音楽に対する見方・興味に多大な影響を及ぼしました。
 ほぼ毎日の夕飯時には音楽に関して、音楽が生まれた時代の奏法や習慣についての話を聞くことのできた貴重な時間でした。ここでの交流は、僕の飛躍から覚醒に至るまでの重要な足掛かりになったと感じています。


▼Koninklijk Conservatorium Brussel・飛躍から覚醒へ

 Post Graduatに入学し、ここでPiet Kuijiken教授と2年間を過ごすわけです。彼の最初のレッスンで言われた事は忘れません。

「君は頭がいいし、僕は君に良い影響を与えることが出来ると思う。だからきっと"君の人生が変わるよ"」

 今までこんなに心強い言葉を貰ったことはありませんでした。そして事実、彼は僕のピアニストとしての人生を変えたわけです。

 彼は僕に、楽譜の読み方を教えてくれました。それは、これまで受けたどのレッスンとも違うものでした。僕の中でバラバラに蓄積されていた情報が一気に統合されていく日々は、発見の日々であり、喜びの日々でありました。
 でも全てが順調であったわけではありません。本当に何回も成長の壁にぶつかって、これ以上は無理かもしれないと何度も思いました。挫けました。その分だけ成長も感じられたのですが、その分だけまた壁にぶつかるという日々でした。

▼留学最後のコンサートにて

 とてつもない成長を実感し、変化を感じ、沢山の知識と確信を得た2年間でした。
 だけども最後まで分からなかった事があった。

《音の響きを聴くこと》

 これはピアノを学習し始めて以来、各先生から言われ続けてきたことです。パリ時代に師事したBilly先生はこの点について、非常に具体的に説明をしてくれた稀な方でした。しかしそれでも僕には、音の"なにを"聴けばいいのかが分からなかった。
 でもね。最後の最後に分かったんです。
 留学最後コンサートのリハーサル中に、あぁこれを聴けばいいのか!!って言う感覚が。もふもふっと。

 コンサート後日に、友人から伝え聞いた先生の言葉には最高に感動しました。

『昨夜は特別なコンサートだった』


▼だからこそ僕は、意味があると思う

 僕はピアノを意地で弾いていました。負けるのが悔しくて、どうしていいのか分からないのが悔しくて、もがき苦しんで来ました。しかし、そうしていく中で出会いがあり、気付きがあり、そしてついに音楽の喜びを知りました。これは知識を得る喜びであり、発見の喜びであり、なにより成長を実感する喜びです。

 僕はこれを伝えたい。僕の中に知識・経験として蓄えられ、そして"体系化された認識"となったこの成長を共有したい。そして共に成長していきたいと思います。
 更に、この成長の力は音楽業界に限らず、異業種の方とでも分かち合えるものと信じています。ピアニストとしての枠組みを越えて、内なる可能性を刺激する音楽家でありたいと思います。
 僕はまだまだ成長します。今もまた新しい成長を実感しています。これからも成長を続けます。

 成長し実感する事、それが最上の喜びです。
 僕はいま、クラシック音楽を愛しています。


僕はクラシック音楽が好きじゃなかった。<高校から大学・フランスへ>

今回は、自分語りを。長々と手短に。
僕が音楽家になるまでの14年間の変化について。

▼意地で続けてきた音楽

 僕が真剣に音楽に取り組み始めたのは高校受験の時。音楽を専門にする高校があると聞き、勉強より音楽の方が"楽"かなぁと思って受験をしたのでした。
 しかし、当時受験の為に通った先生から「この子は受からない」と言われていて、あきらめるように促されていたのですが、諦めきれずに他の先生を紹介してもらうような始末でした。
 そして泣き泣きの猛練習の末、なんとか合格したのですが、先生から「あなたは40人中40番目で入学しました」と言われたのを鮮烈に覚えています。
 それからは、自分よりも評価の高いやつらに負けるのが悔しくて、いい点数をとるために音楽をしていました。「絶対こんなやつに負けているわけないのに、なんで俺は良い点数じゃないんだ!!」などと思っていました。
  そんな高校での日々の結果、大学も音楽大学へと進むわけですが、そこでもまた紆余曲折あり、叩き落とされる経験をするわけです。

▼大学時代

 大学は、それから長く付き合う事となる友人に出会えた素晴らしい場所でありました。しかし同時に、とにかく辛い苦悶の時期でもありました。
 先生に習うことは実行しているはずなのに一向に上手くならない。それどころかドンドンと下手になっている気がする。練習の為にピアノに向かうと、背中の後ろから重たい物にのしかかられている様に感じる。自分のやりたい音楽が分からないどころか、何が楽しいのか、なにが正しいのか、なにが美しいのか、そしてどうしてそうするのかが全く分からない。
 とりあえず和音の上の音を出して、リズムを正確に弾いて、、、こんなんで自分はピアノを弾いている意味はあるのか。自分の良いところはどこなのか。
 自信も失くし、悔しさと憤りと屈辱感だけが募る日々でした。

 いまから思うと、実はこの時代が僕の原点となっていて、「自分のような生徒を少しでも減らしたい」と思うきっかけとなる日々でしたが、戻りたくはない日々です。

▼海外へ

 大学4年になり進路について考えていた頃でした。それまでは考えもしなかったのですが、知人の勧めで海外留学を考え始めます。大学四年の5月頃だったかと思います。自分の中でも、このままでは大学院には進めないという閉塞感があり、その折に「また二年間ココに通い続けるの?」「若いうちの、感動の力があるうちに海外に行って欲しい」という言葉に背中を押してもらい、留学へ向けて動き始めます。
 今となっては、僕の人生を変えた素晴らしい選択でしたが、当時は先の見えない模索の中の選択でした。

▼ナンシー国際音楽祭

 まずは先生探しとして日本でマスタークラスを受けました。そこで運よく「この先生に習いたい」という方に出会い、引き続きレッスンを受けるために夏の講習会に赴きます。

 初めての海外。飛行機。。。

 夕方にパリ東駅に着き、言葉も分からない、なにを食べていいのかも分からない中、東駅で買ったサンドイッチとビールの味は格別でした。"これからここで生活していくんだ"と思いながら見た景色は目に焼き付いています。
 翌日ナンシーへ移動して講習会も始まるわけですが、フランス語なんかド初心者な僕は、先生がなにを言っているのかサッパリな訳です。通訳は頼みませんでした。それでもどうにか雰囲気とジェスチャーを汲みとって理解しました。

 そうだ。いい思い出として。
 講習会期間中に突然の雨が降ったことがありました。
 いわゆるゲリラ豪雨だったのですが、雨が止んだ後に、ナンシーの石畳を流れる水は、太陽に輝いてとても幻想的でした。教会に入ってみると、ステンドグラスが日差しを受けて、やわらかい彩りを表現していました。
 留学を決断してよかったと思った、一つの瞬間でした。

▼フランス時代・パリ

 パリ生活一年目は、これもまた叩き落とされて始まります。当初目指していたパリ地方音楽院には入れず、エコールノルマル<école normale musique de Paris>へと入学します。

 一年目はすべてが混乱のなかにありました。部屋探し・ピアノ探し・ビザ・ビザ・visa・visa....とにかくあっという間に過ぎ去った一年です。

 二年目は前年の念願を果たし、パリ地方音楽院に入学します。
 ここで2年間お世話になったのが恩師、Billy Eidi先生です。素晴らしい人格者であり、教育者であります。彼の音は、ナンシーの教会で目にした光そのものです。

 彼の手により、僕のピアニストとしての土台作りが為されました。
 音の聞き方・タッチについて・楽譜を読むことについて。すべての音楽に関する土台が、彼によって形作られました。この頃やっとで少しずつ、音楽のやり方が分かりはじめ、もっと上手に弾きたいと思う気持ちが芽生え始めた頃でした。まるで畑の土を丁寧に耕すような日々だったと思います。

 しかし残念ながら学校の規定で2年間しか在学できなかったので、次の学校について検討を始めます。ふと、「音楽で生きていくには修士は最低限必要」との言葉を思い出し、フランス語圏で修士過程を模索し始めるのでした。


続く≪ブリュッセルでの日々